【体験談】トランスジェンダーの父、親権を獲得する【娘の記録】

LGBTQ

 

ミナミコ

こんにちは!フリーライターのミナミコと申します。

トランスジェンダーの父によって育てられた、ちょっと特殊な境遇だっただけの、「ふつうの娘」です!

 

やあ、ミナミコ。今日はどんなエピソードなの?

 

ミナミコ

私のこれまでのお話を聞きたい人は、「カテゴリー:MtF娘の追憶」からご覧くださいね。

今回は、「なぜトランスジェンダーの父に育てられたの?」というエピソードをお話します!

 

 

私がトランスジェンダーの父に育てられることになったワケ

私はトランスジェンダーの父に育てられました。

父と母は離婚しました。

母は電車で会いに行ける距離に住んでいます。

母ともたまに会って、旅行などにも行ける、良好な関係を築いています

 

ここまで聞くと、もしかしたら疑問に思われるのかもしれませんね。

トランスジェンダーの父。

シスジェンダーの母。

なんで母親のほうについて行かなかったの、と。

 

二人の喧嘩別れの時の様子はこちらの記事から読めます。

 

あれ?でも、それって前の記事で話したよね。

ミナミコ
ミナミコ

はい。母が出て行くその時は、父が無理やり私を引き留めました。

小学生だった私には、その場で追いかけられなければ、ほかに縋るすべもありませんでした。

当時ガラケーの時代、そのガラケーすら持ってなかった小学生

連絡もできない状態で、母を追いかけられるはずもありません。

 

ああ、じゃあ、無理やり父親に抑えられて、しょうがなく父親に育てられたの?

 

いいえ。もちろん違います。

そんな強引なことを、許すわけないのが「社会」です。

 

ああ、そりゃ、そうだね。親権問題か。

 

ミナミコ
ミナミコ

そうです、父が無理やり引き留めたからって、そのまま終わるわけありません。大人の世界ですから。

 

両親が離婚した場合、どちらの親が、子どもの育児を受け持つのか?

当然、裁判所の判断次第で親権は移ります。

 

そして、どちらの親に育てられたいのか。

ある程度の年齢になっているならば、子どもの意思が、尊重される仕組みになっています。

 

「私は」

 

さあ、父と母、どちらと暮らす。

 

「私は」

 

父と母、どちらと生きたい。

 

二人の兄は、すでに自分の意思で決めていました。

当時 成人前の長男は、「どうせすぐ自立するから」と、手間を考えて、そのまま父のもとに残ると。

中学生の次男は、母と一緒に家を出ると言いました。

 

さあ、私は?

どちらを選ぶ。どちらを、捨てる?

 

捨てるって…

ミナミコ
ミナミコ

でも、そうですよね。選ぶか、捨てるか。小学生の私には、そう感じられました。苦しい選択でした。

…それで、どうしたの?

ミナミコ
ミナミコ

…苦しい選択を、しませんでした。

 

「選べない

 

それが小学生の私の答えでした。

いえ、今尋ねられても、私は同じ答えを出してしまうと思います。

 

私は選べませんでした。

父も、母も、子どもと一緒に暮らすことを望んでいる。

私の選択でどちらかを傷つけることになる。そのことが、どうしても

 

よろしい、それでは、裁判をしましょう。

 

と、なったのかどうかは、よく知りません。

けれど裁判所に判断が委ねられた、ということを、父から聞きました。

子どもが優柔不断でも、大人が決めてくれる仕組みです。

この仕組みがあって、助かった、と私は思いました。

 

とにもかくにも、その結果が出るまでの間、私はそのままの家に住まうことになりました。

 

ここからが私の大変薄情なところですが、母がいなくなって寂しかったのは当然なんですが、一ヶ月もする頃には慣れていました。

思うに、娘が寂しく悲しくならないよう、父が全力でフォローしていたんだと思います。

 

実家近くの祖母宅で開業医をしている父は、十分に私と遊ぶ時間をとれました。

しょっちゅうドライブに連れて行ってくれたし、学校の自由研究には夜遅くまで付き合ってくれたし、PTAの仕事や授業参観にも出席してくれました。

 

すごいね。なんでもできるじゃん。

ミナミコ
ミナミコ

ほんとに笑 父のことは今でも超人だと思ってます。

 

朝ごはんや晩ごはんもいつも作ってくれました。

一人暮らし経験のある父のごはんは、一風変わったものを作ることも多かったですが、ぜんぶ子どもの好みに合わせていたと思います。

 

また、父は私含む兄妹たちから自由を奪いませんでした。

自分が医者だからといって、子供に「しっかり勉強をしなさい」ということもなく、父自身は特に興味もないゲームや漫画も容認してくれました(もちろん一般的な限度はあったけれど)。

 

私に「お習字やそろばんに通いなさい」と口酸っぱく言っていたのは母でしたが、それを辞めたいと言っても、父は怒りませんでした。

 

そもそも、父は母と暮らしている時から、子どもたちに対する愛情が深かったのです。

突然子どもに構うようになったわけではなく、昔から一緒に遊んでくれていました。

だから、私は昔から父と過ごすことが大好きだった…。

 

そんなふうに日々が過ぎると、裁判ではどうなるか。

親権問題ではどのようになるのか。

 

親権をとるのに母親のほうが強いと言われるのは、「離婚に至るまでの生活の中で、母親の方が過ごす時間が長いから」です。

 

この点で、父も母もそう変わりません。

二人とも十分に子どもとの時間をとっていました。

 

けれど、私たち家族の場合、この判決が決まるまでの間、私は父と暮らしていた。

薄情な私は、笑うことを忘れることもなく、父と笑顔の写真を撮ることがあった

 

 

母が後からぼやいていました。

「父はずるかったよ」と。

 

父はどうやら、母が出て行ってからの、私が笑っている写真を、裁判所に提出したらしいです。

それが決め手となり、娘は、父に預けても問題がないとされました。

そのまま私の生活は変わることなく、父と暮らすことになった

 

後から母にその話を聞いた時、私は何も言えませんでした。

父も大好きだけれど、母も大好きだったのに。

どっちにつくか決められなかった私は、結局「笑顔の写真」で母を傷つけました。

 

ミナミコ
ミナミコ

このときのことは、私の頭から永遠に消えません…

 

これが、私が「MtFの娘」になった経緯。どっちつかずの私が手に入れた立場。

1番手に入れたかったのは、「幸せな夫婦の娘」だけれど。

 

それでも、薄情な娘は今、幸せに暮らしています。

このブログは、トランスジェンダーの父に育てられた、「ふつうの娘」による備忘録や雑記です。

今回は「MtF(Male to Female、男性から女性へなりたい人)の娘の追憶」として、エピソード2をご覧いただきました。

ほかにも、追憶のエピソードもありますし、まったく関係のない記事もありますが、ご興味があるものをお読みください。

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